網走市社会福祉協議会について
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網走市社会福祉協議会について
社会福祉協議会とは
社協は社会福祉協議会の略称(りゃくしょう)です。
社協は、社会福祉法第109条により「地域福祉の推進を図ることを目的とする団体」として位置付けられ、すべての市町村に設置される民間非営利団体です。
社協は、地域で暮らす皆様のほか、ボランティア・福祉・保険・医療・教育など関係機関及び行政機関の参加・協力のもと、地域の人々が住み慣れたまちで安心して生活することのできる「人にやさしい福祉のまちづくり」の実現をめざし、さまざまな活動を行っております。
また、社協は、市民の皆様一人ひとりが主体となって、地域における福祉の問題を市民の皆様と考え、話し合い、協力して社会福祉を目的とする様々な事業を行っています。
社会福祉協議会の成り立ち
昭和20年8月15日、日本では太平洋戦争が終結し戦後の復興期が始まりました。
戦後まもない頃の日本は、激しいインフレや食料・住宅の不足などに見舞われ、多くの国民が生活困窮に陥っていたため、この時代の日本は社会福祉制度においては「貧困からの脱出」という社会目標のもとに貧しい社会における貧困者の救済を中心としたものでした。
さらに、昭和21年の「社会救済」に関する覚書によって、民間の社会福祉事業に対する公的な財政支援は昭和22年5月で打ち切られ戦後の混乱に追い討ちをかけました。
一方、資金を断たれた民間福祉施設や福祉活動に対する打開策として実施されたのが、現在の「赤い羽根共同募金」の前身となる「国民助け合い共同募金運動」でした。(網走市では昭和22年11月に第1回の共同募金運動が行われました。)
その後、日本に「社会福祉協議会」が誕生したのは、昭和26年1月12日に「日本社会事業協会」が「全日本民生委員連盟」と「恩賜財団同胞援護会」とを統合して「中央社会福祉協議会(現在の「全国社会福祉協議会」)となった時で、また、北海道では同年、中央に準じて北海道民生部が世話役となり「北海道民生委員連盟」「北海道社会事業連盟」「同胞援護会北海道支部」を統合し、昭和26年3月25日に「北海道社会福祉協議会」が創設されました。
全国及び都道府県の社会福祉協議会は、昭和26年6月に施行された「社会福祉事業法(現在の「社会福祉法」)」により法制化され全国的に拡がりました。
昭和26年に公布・施行された「社会福祉事業法」では、まだ社会福祉協議会は全国及び都道府県への設置が規定されただけで、市町村段階での設置規定はなく、市町村での社会福祉協議会が法的に位置づけられたのは「社会福祉事業法」の公布から32年後の昭和58年でした。
社協会費・寄付金の紹介
網走市社会福祉協議会は、市民の皆様にとってよりよい地域福祉、ボランティア活動の推進及び地域福祉サービスを提供できるよう努力をしています。
寄附金は、社会福祉協議会の事業や運営を行う上で、大きな支えとなっています。
私たちの事業運営にご理解とご協力をいただきますようお願いいたします。
網走市社会福祉協議会の概要
目的 | 網走市における社会福祉事業その他の社会福祉を目的とする事業の健全な発達及び社会福祉に関する活動の活性化により、地域福祉の推進を図る。 |
名称 | 社会福祉法人網走市社会福祉協議会 |
所在地 | 北海道網走市北11条東1丁目10番地 網走市総合福祉センター内 |
設立 | 昭和27年8月27日 (法人認可:昭和42年12月14日) |
役員 | 理事13名、監事2名 (会長1名・副会長2名・常務理事1名) |
評議員 | 評議員15名 |
経営理念 | ・住民参加、協働による福祉社会の実現 ・地域における利用者本位の福祉サービスの実現 ・地域に根ざした総合的な支援体制の実現 ・地域の福祉ニーズに基く先駆的な取り組みへのたゆみない挑戦 ・事業展開における組織運営 |
沿革
網走市社会福祉協議会の創立
北海道網走市が誕生(市制施行)したのは昭和22年2月11日のことで、網走市社会福祉協議会(以下「網走市社協」)はその5年後の昭和27年8月27日に誕生しました。
網走市社協は、当時の「民生委員連盟網走市支部」と「網走市民生援護会」を中心に設立され、設立当時の定款には「本会は、社会福祉事業関係者並びに地域内住民が相協力して地域社会の福祉の増進を図ることを目的とする。」と明記され「社会福祉事業に関する総合計画及び連絡調整」や「社会福祉事業の実施又は協力」「社会福祉奉仕者の連絡」などの事業を行っていました。また、設立当時の役員は会長・副会長が各1名、理事7名、監事2名、代議員20名と評議員20名の体制で、昭和27年度の予算は102,000円でした。
設立当時は、まだ混沌とした世情から抜けきれず、生活困窮者や海外からの引揚者の救済が主な仕事で、その活動の中心をなしていたのが民生委員で、戦後しばらくは民生委員が福祉を支え、復興への大きな柱となりました。このため、当時の網走市社協の主な仕事は民生委員活動に関わる法外援護がほとんどで行政補完の域を出ませんでした。
「福祉三法」時代から「福祉六法」時代へ
日本では、昭和20年代から昭和30年代にかけて、戦後復興期の「福祉三法」(生活保護・児童・身体障害)時代から高度経済成長期の「福祉六法」(生活保護法・児童福祉法・母子及び寡婦福祉法・老人福祉法・身体障害者福祉法・精神障害者福祉法)時代へと変遷し、この頃は福祉に活性化が見られる時代で、網走市でも「くるみ里親会網走支部」「網走市連合遺族会」「網走市赤十字奉仕団」「網走市更生保護婦人会」「北海道傷痍軍人会網走支部」がそれぞれ発足しました。
網走市社協で昭和22年から始まった共同募金運動は、開始当時は11月から12月にかけての1ヶ月間の運動期間だったのが、現在の10月から12月までの3ヶ月間に拡大されたのも昭和34年からでした。
昭和40年代に入り、日本は、経済が著しく発展し世界にも例をみない高度経済成長を遂げた時期でした。
しかしながら、国民所得の増加や生活水準が向上する一方で、社会構造・産業構造の変化や家庭・地域の変化などによってこれまでとは異なる福祉需要が生じてきました。
社会福祉法人認可
網走市社協は、昭和42年12月14日に社会福祉事業法の認可を得て「社会福祉法人」として法人化し、また、昭和45年4月の総会では、市民参加のもとに社会福祉事業の能率的な運用と組織活動を促進しようとの意図から体制・組織の見直しを行い、ほぼ現在の体制につながる体制づくりが行われました。
当時は、「住民主体の原則」のもとに各事業の展開に取組み、地域福祉活動重視の基盤づくりを行っており、災害見舞金の支給事業や、福祉活動専門員の配置、網走市心配ごと相談所の開設などの事業を行っていました。
また、現在の網走市社協広報誌「ふれ愛め~る」の前身の「明るいまち」第1号が発刊されたのもこの頃でした。
この時代には「網走市老人クラブ連合会」が昭和41年に発足し、昭和43年に「網走市子ども会育成連合会」、その翌年には「網走市身体障害者福祉協会」が発足しました。
昭和50年代、網走市社協は現在の体制につながる事業が多く展開されました。
昭和51年、福祉団体関係者からその中心となる施設の設置を要望する声が市にあり、同年4月10日「網走市総合福祉センター」が開館し、網走市社協事務局が同センター内に移転しました。
また、ボランティア活動の需給調整などを行う機関としてそれまで奉仕活動の需給調整等を行う機関であった「網走市愛情銀行」の名称を変更し「網走市ボランティアセンター」が同年8月1日に設置されたほか、現在「しあわせ号」の名称で利用されている網走市福祉バスが昭和54年から運行されています。
住民福祉団体では、昭和49年「網走リハビリ友の会」昭和50年「網走手話の会」「網走市ことばを育てる親の会」昭和52年「網走市町内会連合会」がそれぞれ発足しました。
「昭和」から「平成」へ
昭和から平成へと移り変わってゆく時代、日本は長寿国として高齢化社会の到来を迎えるにあたり、国では「高齢者保健福祉10カ年計画(ゴールドプラン)」の策定や社会福祉関連法の改正などが行われ、高齢者に関する保健福祉サービスの基盤整備が行われました。
高齢者福祉サービスの流れも施設から在宅へと移行し、網走市社協では平成5年4月より市からの受託によりホームヘルプサービス事業が開始され、翌年には「網走市老人デイサービスセンター」が網走市総合福祉センター敷地内に開所され現在まで利用されています。
少子高齢化社会の到来
平成12年4月に施行された「社会福祉法(旧社会福祉事業法)」の中で市町村社協は「地域福祉の推進」を目的とする団体として明確に位置づけられました。同年には「介護保険制度」が開始され高齢者福祉サービスの大きな転換期を迎え、平成18年にはそれまで個別のサービス提供であった障がい者関係サービスが統合された「障害者自立支援法」が施行され、措置から契約へ、施設から在宅・地域へとなるなどそれぞれの福祉サービスが大きく変化し、社会状況も少子高齢化によりこれまでとは違う状況を迎えています。
網走市社協は、戦後間もない時代の創立から60年以上を経過し、刻々と変化する社会状況の中、より豊かな網走市の地域福祉を目指し今後も活動していきます。
情報公開
網走社会福祉協議会の公開情報は以下よりご確認ください。
実践計画
網走社会福祉協議会の実践計画は以下よりご確認ください。